一夜の旅路 —— 藍色の境界線

一、 凪の街
九月の終わり、都会の夜は湿り気を帯びた微風に揺れていた。
サキは、駅前の無機質なタイルを数えながら歩く。事務職としての毎日は、整然と並べられたExcelのセルのように平坦で、色がない。彼女の人生には、ドラマチックな起伏も、心を引き裂くような悲劇もなかった。ただ、静かに摩耗していく感覚だけが、古い消しゴムのカスのように心の底に溜まっている。
「……あ」
街灯の死角、古い雑居ビルの陰に、それは落ちていた。
最初は打ち捨てられたゴミ袋かと思ったが、それは人間だった。煤けたバックパックを枕にし、長い脚を投げ出して座り込んでいる男。
通り過ぎようとしたサキの足を止めたのは、彼の喉の奥から漏れた、獣のような、けれどあまりに弱々しい喘鳴だった。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかける。返事はない。ただ、深く被ったフードの隙間から覗く頬が、驚くほど痩せこけていた。サキは反射的に近くのコンビニへ走り、おにぎりと温かい茶、それに栄養ゼリーを買い込んだ。
「これ、食べてください」
差し出した袋を、彼は震える手で奪い取った。包装を剥がすのももどかしく、彼は食べ物を口に押し込んだ。それは「食べる」というより、生命を維持するための必死の「儀式」のように見えた。サキはそれを見つめながら、自分の内側にあった空虚な隙間が、彼の凄まじい生への執着によって埋められていくような錯覚を覚えた。
「……助かった。死ぬかと思った」
ようやく一息ついた彼が、顔を上げた。整った顔立ちは汚れ、髭が伸びているが、その瞳だけは夜の闇を射抜くように澄んでいた。
「お金、なくなっちゃって。旅の途中なんだ」
「旅?」
「そう。どこへ行くってわけじゃないけど、止まったら終わる気がして」
彼の声は低く、どこか遠い場所から届く風の音に似ていた。このまま彼をこの湿ったアスファルトの上に残していくことは、自分の半分を捨てていくことと同じような気がした。
「……だったら、家においでよ」
口をついて出た言葉に、サキ自身が驚いた。内気で、慎重で、石橋を叩いて壊すような自分が、見ず知らずの男を誘っている。
男は驚いたようにサキを見つめ、やがて困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「……いいの? 悪い奴かもしれないよ」
「いい。たぶん、私の方が悪いから」
サキは自嘲気味に笑った。空っぽな自分を、彼の毒で満たしてほしかったのかもしれない。
