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共喰い

プロローグ

黒崎は電子タバコのスイッチを押した。

白峰ヒルズの近藤邸前には、事件から数日経った今も規制線が張られたままだ。フリーライターの黒崎は、独自に入手した現場写真の束を広げた。

​警察は室内が荒らされた状況から「強盗殺人」として処理を進めている。しかし、写真に収められた現場は、単なる金銭目的の犯行とは明らかに乖離していた。

​寝室で全裸のまま毒殺された家主・近藤正樹。その傍らで背後からワイヤーで絞殺された妻・美帆。着衣を乱した身元不明の若い女の刺殺体。さらにリビングには、バールで頭部を粉砕された身元不明の男。

​毒殺、絞殺、刺殺、撲殺。

​なぜ一箇所の密室で、これほど多岐にわたる殺害手法が必要だったのか。黒崎は写真を一枚ずつ検分し、手元のノートに書き込んだ。

単なる物盗りでは説明のつかない、歪な殺し合いの痕跡。

この家で、誰が誰を裏切り、どのような連鎖で死を迎えたのか。

黒崎は静かに写真の束を閉じて、味気ない煙を吐いた。

          *

〜近藤正樹・48歳〜

​寝室のカーテンは閉ざされ、室内の空気は澱んでいる。近藤正樹は、中山聖奈の身体の上で淡々と腰を動かしている。聖奈の喘ぎ声も、背中に刻まれる爪の跡も、今の正樹にとっては何ら特別な意味を持たない。

聖奈は数カ月前にクラブで知り合った水商売の女だ。向こうから積極的にアプローチしてきて、今では妻の美帆が仕事で家を空ける日を狙って、こうして上がり込むようになっている。肉感的な体をしていて、遊び相手としては悪くなかった。

​彼の人生は、生まれた時から戦いだった。地方の零細企業に生まれ、そこから受験で勝ち上がり、一流大を経て外資系金融の支店長という地位に辿り着いた。妻の美帆との結婚も、出世の足掛かりにするための手段に過ぎない。愛のような不安定な感情に、正樹は一度も人生を預けたことはない。

​三ヶ月前、美帆の日記に『死にたい』という記述を見つけたとき、正樹は冷静に状況を判断した。この女はもう役に立たない。それどころか、今後の人生における足枷でしかない。

正樹は、裏社会で「始末屋」として顔の利く薬丸健太に接触した。薬丸は以前、投資トラブルの揉み消しで雇った縁がある。

​「……ふう」

​正樹は動きを止めた。今夜、すべてが終わる。美帆がいなくなれば、この家は完全に自分の望む形になる。聖奈も適当なタイミングで切り捨てればいい。すべては計画通りに進んでいる。

​——その瞬間だった。胸の奥に、氷のような熱さが走った。

​心臓が異常な速さで脈打ち、視界が急速に狭まる。毒だ。正樹は聖奈の肩を掴もうとしたが、指先に力が入らない。

​倒れこんだ正樹が見た聖奈の顔には、愛欲の熱は残っていなかった。一切の感情を排した、深淵のような表情だ。彼女は正樹の下から身を起こし、その瞳で冷ややかに見下ろした。

​痺れが全身を回り、思考が鈍る。勝利、出世、裏切り。すべて自分の手の中にあるはずだった、なのに。。。

正樹の瞳から焦点が消え、肉体はシーツの上で沈黙した。​聖奈が正樹の耳元へ口を寄せ、淡々と告げる。

​「あなたのつまらない人生で、最高の絶頂だった?」

         

〜近藤美帆、38歳〜

寝室のドアを開けた瞬間、生臭い気配が鼻をついた。ベッドの上で、夫・近藤正樹が死んでいる。口から白い泡を零し、焦点の合わない目で虚空を睨んでいた。長年、自分を縛り付けていた「妻」という仮面が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

​愛など幻想だ。

美帆は幼い頃からそう悟っていた。美帆は愛のない家庭で育った。父親は仕事に逃げ、母親は不満を溜め込むだけの影のような存在。美帆は幼い頃から自立するためだけに勉強を続けた。公立校から地元の国立大学へ、優秀な成績で卒業。職場でも感情を殺し、キャリアだけを追い求めた。 

正樹との結婚も、互いの体裁を保つための契約に過ぎない。メリットはあるが、女としての自分は腐りかけていた。

​そこに現れたのが、薬丸健太だ。

​「旦那はあなたを殺す気だ。だが、私と組めば逆に彼を葬れる」

夫が自分を自殺に見せかけて殺そうとしていると知った時、怒りよりも先に「契約終了の時が来た」と確信した。

​美帆は即座に頷いた。

薬丸と体の関係になるのに時間はかからなかった。薬丸との蜜月は、美帆にとって初めての「本性の解放」だった。

それから不安定な妻を演じつつ、夫を毒殺する計画を進めた。

すべては自由を手に入れるために。

​夫の無様な死体を見下ろし、美帆は深く息を吐いた。(やっと……自由になれた)

​直後、背後から無骨な腕が回り、首筋を撫でた。薬丸だ。薬丸は死体の横で、美帆の胸元に無遠慮に手を入れてきた。

​「今ここで……?」

​「旦那さまが観客だ。悪くないだろう」

​拒む理由はなかった。ベッドの端に押し付けられ、美帆は激しく身体を震わせた。冷えゆく夫の肉体を視界の端に捉えながら交わる背徳感。計算と打算だけで生きた自分が、初めて本能のままに快楽を貪る。

これで終わりだ。

これで、すべてが終わる。

絶頂の直前、首に冷たいワイヤーが食い込んだ。

​気管が潰れ、声にならない悲鳴が漏れる。絶頂の波は、一瞬で死の淵に塗り替えられた。薬丸が耳元で、ひどく事務的な声音で告げる。

​「愛憎のもつれによる凄惨な無理心中。世間が好む、美しい結末だろ?」

​酸欠で視界が黒く染まっていく。ぼやける視線の先には、毒で歪んだ夫の滑稽な死に顔があった。

​計算高かったはずの自分を嘲笑うように、美帆の意識は深い闇へ沈む。夫の死体と、自分を殺す男の体温に挟まれながら、美帆は誰にも愛されることなく、静かにその一生を終えた。

          *

〜中山聖奈、33歳〜

寝室のドアが静かに開く。室内には、死して重なる二つの肉体が転がっていた。正樹と美帆。かつての家主と、その妻。聖奈は部屋の入り口に立ち、その光景を冷徹な瞳で見下ろした。久しぶりに煙草が吸いたくなった。

​聖奈は地方の貧困層の単親家庭で生まれた。母親は毎晩違う男を家に連れ込み、聖奈が小学生の頃にはすでに「女の価値は体と顔だけ」と教え込まれた。15歳で家出して以来、夜の街を転々とし、男の金で生きてきた。

最初はただのキャバ嬢だったが、すぐに頭の回転の良さに気づいた。男の弱みを握り、甘い言葉で貢がせ、捨てられる前に次の男を見つける。20代半ばで色恋詐欺に手を染め、数十人の男から金品を巻き上げてきた。心はとうに麻痺していた。

正樹の懐に入り込み、毒牙にかける。すべては薬丸と練り上げた完璧な計画だ。聖奈にとって、これは感情ではなく、冷厳なビジネスに過ぎなかった。

​部屋の奥、窓の外を見ていた薬丸が振り返る。その冷酷な目に、聖奈は奇妙な安堵を覚えた。

​「健太、ご苦労様。これで、私たち勝ったのよね」

​聖奈はベッドの傍らへ歩み寄り、正樹の死体を跨ぐようにして薬丸の胸に寄り添った。詐欺の相棒、ビジネスパートナー。ただの損得勘定で結ばれたはずの男。だが、彼の無骨な腕が背中に回された瞬間、麻痺していたはずの心がわずかに揺らぐ。

​「よくやった、聖奈。お前がいなかったらここまで来れなかった」

​薬丸の唇が首筋に落ちる。優しいキス。背中を撫でる大きな手。

​(もしかして……この男となら、まともな未来があるのかもしれない)

​生まれて初めて「愛」という言葉を信じたくなった。この一瞬だけは、詐欺師ではなく、ただの女として彼に抱かれたい。聖奈は甘えるように目を閉じ、全霊でその抱擁を受け入れた。

​薬丸は何も言わず、聖奈の背後に回るとその腰を強引に抱き寄せた。いつもの、彼が好む体位だ。ベッドの端に手を突かせ、背後から荒々しく貫く。背中を撫でる大きな手、耳元で吐息を漏らす男。ただのビジネスパートナーのはずなのに、その圧倒的な支配感に、聖奈の意識は陶酔の淵へと沈んでいった。

​——その、最も無防備な頂点の刹那だった。

​激しい快楽の最中、左の脇腹に冷たい鋼が深く沈み込んだ。

​痛みよりも先に、理解が追いつかない。薬丸はリズムを止めないまま、ナイフをさらに奥へとねじり込む。見上げると、彼はいつものように冷徹な表情で自分を見下ろしていた。

​「聖奈、お前は優秀な『道具』だよ。まさか、俺と本気で未来を夢見てたのか?」

​ナイフが引き抜かれる。噴き出す血でシーツが真っ赤に染まり、聖奈は正樹と美帆の死体の上へ崩れ落ちた。傷口から温かな命が床に溢れ出していく。

​一生、他人を利用してきた。自分が一番賢いと信じていた。だが最後は、自分が一瞬だけ信じた男に、最も残酷な形で利用され、使い捨てられた。聖奈は自らを嘲笑うように小さく唇を歪め、冷たい床に顔を伏せた。

          *

〜薬丸健太、34歳〜

隣の寝室には、三つの死体が重なっている。薬丸健太は一人、リビングのソファに深く腰を下ろすと、最高級のウィスキーをグラスに注いだ。血と鉄錆、そして死の匂いが充満する部屋で、彼は深く息を吸い込む。

​(完璧だ。すべて、俺の掌の上だった)

​人間など、所詮はお互いを利用し合うだけの獣に過ぎない。

薬丸は北関東の工業地帯で育った。父親は暴力団の下っ端で、母親は風俗嬢。10歳の頃、父親が借金取りに殺されるのを目の前で見ていた。母親はすぐに別の男と蒸発し、薬丸は12歳で路上に放り出された。

以来、生きるために盗み、恐喝、強姦、殺しを繰り返した。17歳で初めて人を殺し、20歳で本格的に裏稼業に入った。

「無理心中」「自殺偽装」「遺産乗っ取り」を専門にし、これまで少なくとも8件を手がけてきた。依頼人が金を払った後、依頼人自身も始末して全財産を奪う——それが彼のスタイルだった。

正樹の傲慢さ、美帆の執着、聖奈の情。そのすべてを計算に入れ、互いに殺し合わせるよう仕向けた。己の知略のみで、数千万の資産と完全犯罪を手に入れたという全能感が、薬丸の脳髄を心地よく痺れさせる。

​薬丸は立ち上がり、壁に隠された金庫を開けた。中には通帳、保険証券、束になった現金。成功の果実を前に、彼は満足げに口角を上げた。これさえあれば、もう裏社会で汚れ仕事をする必要はない。ここから先は、誰にも縛られない、自分だけの優雅な生活が始まる。

​——ガシャァァァン!!

​突如、テラスの窓ガラスが派手な音を立てて砕け散った。

​雪崩れ込んできたのは、目出し帽を被った数人の男たちだ。手にはバールや金属バットを握りしめている。彼らはこの豪邸で今夜、緻密な殺人計画が実行されていたことなど何も知らないはずだ。

ただ金に飢え、獲物を求めてやってきた、無軌道な暴力の塊だった。

​「動くな! 金を出せ、オラァ!!」

​薬丸は即座にナイフへ手を伸ばそうとした。プロとしての反射だった。

​だが、それより早く、興奮しきった男が振り抜いたバールが、薬丸の膝の骨を無慈悲に粉砕した。

​体勢を崩して倒れ込んだところに、金属バットの雨が容赦なく降り注ぐ。防ぐ手段も、交渉する余地もない。相手は緻密な計画など持たない、ただ野蛮な暴力の行使者だ。

​頭蓋骨が割れ、視界が血で真っ赤に染まる。全身の骨が砕かれる鈍い音が、自分の体の中から響いていた。

​知略も計算も、この圧倒的で無知な暴力の前では無力だった。誰もが互いを喰らい、最後はより野蛮な餓狼に喰われる。それがこの世のルールだ。

​振り下ろされたバットが顔面を陥没させた瞬間、究極の黒幕だった薬丸健太の意識は、呆気なく暗闇に呑み込まれた。

エピローグ

事件から数日が経過した。俺は規制線が張られた近藤邸の前に立ち、幾人もの関係者を丹念に当たって作った取材メモを広げた。

​警察は依然として単なる「強盗殺人」の線を崩さず、事件の全貌について正式な発表を控えている。しかし、俺が独自に掴んだ事実は違った。逮捕された強盗団の少年たちは、バールで頭を砕かれた男——薬丸の殺害は自供したものの、残る三人の死については「俺たちが踏み込んだ時には、すでに死んでいた」と頑なに否認を続けているというのだ。

​現場の不自然な状況と、断片的な証言。それらを繋ぎ合わせると、ひとつの異様な光景が浮かび上がってくる。

​あの夜、少年たちが窓を割って雪崩れ込む前から、この密室はすでに地獄だった。

近藤夫婦、中山聖奈、そして薬丸。彼らは強盗とはまったく無関係に、金と欲望のために互いを裏切り、陰惨な殺し合いを演じていたはずだ。

​盤上の支配者を気取り、悪が悪を欺き、喰らい尽くす。

だが、すべての血を啜り、最後に笑うはずだった勝者の前に現れたのは、知略も打算も一切通じない「無軌道な暴力」という、別種の悪だった。

​緻密に計算された悪意が、ただ金に飢えただけの野蛮な狂気に、あっけなく噛み砕かれる。

​それはまるで、共喰いのようだ。

クリエイターのプロフィール
アメブロ・Thai-massage soulで、タイマッサージ店に訪問してマッサージを受けた感想を配信しています。良い店舗・スタッフさんが、タイマッサージを愛するお客さんと繋がる手助けをしたいと思ってます。ワクストではコアなファン向けの記事を書いてます。
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