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制服の下で、私は人間だった(刑務官・黒川麻衣の場合)

制服を着ると、自分が消える。

 

そう感じたのは、採用されて最初の夜勤だった。

 

支給されたばかりの濃紺の制服に袖を通した瞬間、

黒川麻衣という人間が、どこか遠い場所に引っ込んでいくような感覚があった。

残るのは「刑務官」という機能だけだ。

それで構わないと、そのときは思っていた。

 

 

——

 

朝倉蓮が第三棟に入ってきたのは、

私が着任して八ヶ月目の、梅雨の終わりだった。

 

最初に気になったのは、音のなさだ。

 

新入りはたいてい、何かしら音を立てる。

舌打ち、溜息、わざとらしい咳払い。

ここに来た怒りや戸惑いを、どこかに吐き出さずにはいられない。

だが朝倉は違った。

収容される際の所作が、静かすぎた。

まるで水が低いところへ流れるように、自然に、この場所に馴染んでいった。

 

三十代半ばだろうか。

痩せているが、弱そうではない。

何をした人間なのか、私は考えなかった。

ういう習慣が、この仕事には必要だった。

 

——

 

見回りは、業務だ。

 

一日に何度も同じ廊下を歩き、同じ扉の前に立ち、同じ確認をする。

単調で、だからこそ安全な仕事だ。

頭を使わなくていい時間でもある。

 

だが第三棟の廊下を歩くとき、私の足音は、なぜか少し変わった。

 

意識したわけではない。

ただ、朝倉の房の前を通るとき、自分の息の深さが変わるのを感じていた。

奥まで吸って、ゆっくり吐く。

まるで、そこだけ空気の質が違うみたいに。

 

 

格子越しに目が合ったのは、二度目の週だった。

 

朝倉は本を読んでいた。

顔を上げて、私を見た。何も言わなかった。

私も黙ったまま、一秒か二秒、視線だけを重ねた。

 

 

房を離れてから、心臓が少し速くなっていることに気づいた。

それだけで、十分すぎた。

 

馬鹿げている、と思った。本当に。

 

——

 

七月の末、施設の一部が停電した。

 

原因は老朽化した配電盤らしかった。

夜の九時過ぎ、第三棟の廊下の照明が、前触れもなく落ちた。

非常灯だけが、床の低い位置でぼんやりと光っていた。

その赤い中を、私は一人で歩いていた。

 

暗闇というのは、奇妙なものだ。

目が使えなくなると、他の感覚が急に騒ぎ出す。

空調の低い唸り、どこか遠くの金属音、自分の制服が擦れる音。

普段は気にもしない全部が、急に輪郭を持って迫ってくる。

 

朝倉の房の前を通ったとき、声がした。

 

「暗いですね」

 

それだけだった。

責めているわけでも、怯えているわけでもない。

ただ、事実を確認するような声だった。

 

私は足を止めた。

止めるべきではなかった、とあとで思う。

でも止まった。

 

「すぐ復旧します」

 

自分の声が、普段より低いことに気づいた。

 

格子に近づいたのは、点検のためだ。

そう自分に言い聞かせた。

非常灯の赤い光の中で、朝倉の輪郭が見えた。

立っていた。格子のすぐ近くに。

 

息の音が聞こえた。

彼のものか、私のものか、区別がつかなくなっていた。

自分の喉が、かすかに渇いているのに気づいた。

 

 

暗闇の中で、人間は正直になる。

制服も、役職も、規則も、光の中にあってこそ意味を持つ。

闇の中では、ただの体と体だ。

 

指先が、格子に触れた。冷たかった。

でもその向こうに、確かに熱があった。

どちらが先に触れたのか、今でもわからない。

鉄越しに重なった体温が、制服の下まで伝わってくるような気がした。

息が、乱れた。

自分のものが。

 

——

 

廊下の端で、照明が戻った。

 

白い光が一瞬で現実を取り戻した。

私は格子から手を離し、一歩下がった。

朝倉は、ただ私を見ていた。

私も、何も言えなかった。

 

見回りを続けた。

足が、少し震えていた。

 

制服の下で、私は人間だった。

それだけは、確かだ。

 

規則でも、役割でも、押さえきれない部分が、誰の中にも眠っている。

あなたの中にも、きっと。

 

その夜のことを、私はまだ、誰にも話していない。

クリエイターのプロフィール
<兵庫、大阪の体験記>                ◾セット販売             こんな組合せが欲しいとか対応       (※別途DMで承ります)                    [その他質問等はDMにて]
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