音

この店に入って、まだ一週間。
ワンフロアを丸ごと使った静かなマンションは、廊下も部屋も、やけに音を吸い込む造りだった。
普段は備えつけのスピーカーから、少し大きめの音量でBGMが流れている。
メンズエステにしては、やけに賑やかな選曲だな、と最初は思った。
でもこの日は、スピーカーの調子が悪かった。
仕方なく、わたしは自分のスマホでヒーリングミュージックを小さく流した。
——ピンポーン。
部屋の準備が整った頃、インターホンが鳴った。
⸻
「はじめまして、ミカといいます。よろしくお願いします」
「……あ、はい。よろしく……お願いします」
今日の新規客は、無口な人だった。
挨拶も短く、視線もほとんど動かない。
オプションの説明をすると、迷いなくマイクロとディープリンパをつけた。
淡々と、当たり前のように。
——こんな人でも、やっぱりマイクロは選ぶんだ。
客がシャワーを浴びているあいだに、わたしはまだ着慣れない衣装に着替えた。
鏡に映る自分は、胸元が大きく開き、細い紐がお尻に食い込んでいる。
ただ衣装が過激なだけ。いつも通り、施術すればいい。
鏡の前で、いつものセラピストの笑顔を作った。
⸻
施術中も、客は終始おとなしかった。
最初はこちらから何度か話しかけたけれど、返事は短く、すぐに途切れる。
——静かに過ごしたいタイプなんだな。
そう受け止めてからは、余計な会話は控えた。
部屋にはヒーリング音楽と、オイルが滑る音だけが静かに響いていた。
⸻
最後は仰向け。
「失礼します」
紙パンツの上に軽く跨ると、マイクロの紐越しに、熱を帯びた硬さが伝わった。

ゆっくり腰を揺らしながら、身体をオイルで流していく。
——そのとき、壁の向こうから、かすかな声が漏れてきた。
「あっ……ん……」
一瞬、気のせいかと思った。
でも、次の呼吸の間にも、また同じ声が聞こえた。
客の呼吸が、ほんの少しだけ乱れたのがわかった。
「……」
お互い、何も言わない。
体勢を変え、客の顔の上に胸がくる位置まで身体を寄せる。
——そして、また。
「はっ……んっ……もっと、やさしく……」
静かな部屋に響く、隣からの甘い声。
しばらくして、客がぽつりと口を開いた。
「あの……ここって、裏オプとか、あるんですか?」
低く、探るような声。
(……そう思うよね)
わたしは、いつも通りの言葉を返す。
「ごめんなさい。ここは、そういうお店ではないので……」
客は何も言わず、天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……そう、ですよね」
その直後、今度ははっきりと声が聞こえた。
「あんっ……はっ……」
息遣いまで伝わるような、熱を含んだ声。
部屋の空気が、わずかに揺れた気がした。
「……」
再び気まずい沈黙が流れた。
そろそろ仕上げに入ろうと、添い寝の体勢へ移ろうとしたが、客の足がマットから少しはみ出ていた。
「ごめんなさい。少しだけ、ズレてもらってもよろしいですか?」
客の大きい身体が動いたことで、マットが、キュッと音を立てて動いた。
そのまま、添い寝で身体を寄せて施術していると…
「あ……あの……」
客が、何かを摘むような仕草をして、視線をこちらに向けた。
手元を見ると、そこには——
明らかに“使われたあと”と思われる、伸びたゴムがあった。
一瞬、思考が止まった。
「……あっ」
言葉より先に、身体が反応していた。
「ごめんなさい……今、捨てますね」
できるだけ声の温度を変えないように、ティッシュに包んでゴミ箱に入れた。
何も説明は、しなかった。
まるで何事もなかったように施術に戻った。
部屋には少しだけ、また気まずい沈黙が流れた。
「あの……やっぱり、裏オプって……」
意を決したように、客がもう一度聞いてくる。
「ごめんなさい。先ほどもお伝えした通り、やっていないんです。………わたしは」
「……わかりました。すみません」
そう言って、客は再び天井を見つめた。
そろそろ施術も終わりの時間だった。
わたしは、いつも通りに、手を添え、ゆっくりと上下に動かす。
オイルが滑る音だけが、部屋に残る。
すると、今度は声ではなく、
ドン……ドン……ドン……
と、一定の間隔で、壁に鈍い音が伝わってきた。
まるで、誰かが体重をかけて、壁とともに小刻みに揺れているような音……
その壁の音に遅れるように、
さっきよりも一段、切羽詰まった声が重なる。
「……っ、あっ……んっ……はっ……」
抑えきれなくなったみたいな、息が削れていくような声。
声と、音と、振動が、妙に噛み合っていた。
——そのとき、手の中の熱が、先ほどよりもはっきりと硬さを増したのを感じた。
硬くなったのは、
速くなった手の動きのせいなのか。
それとも——
「あっ……んっ……だめっ……」
隣の部屋から、かぶさるように声が響いた。
次の瞬間、客の身体が小さく跳ね、
白い熱が、わたしの手のひらにこぼれ落ちた。
静まり返る部屋。
奇しくも、壁の向こうも同時に静かになった。
⸻
玄関で客を見送る。
靴を履き終えた客が、こちらを振り向いた、そのとき。
また、隣の部屋から声が聞こえた。
「はぁ……今日はほんとに激しかったぁ。声出しすぎて疲れちゃった。次のお客さんの時、寝ちゃうかも」
一瞬の沈黙のあと、客が口を開いた。
「……あの、また来てもいいですか?」
静かだけれど、まっすぐな視線だった。
「……はい、お待ちしています」
それ以上、何も言わなかった。
客は軽く会釈をして、部屋を出ていった。
⸻
翌日から、わたしは施術中のボリュームを上げた。
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この店では、いろんな音が聞こえる。
でも、本当に騒がしくなるのは——
これから。
※この物語は「セラピスト」シリーズの前日譚です。
続きは有料作品「セラピスト・ミカ」シリーズへ。
