90分コース ミユ

「健太さん、顔やばいっすよ」
夜勤明けの休憩室で、後輩の高橋が缶コーヒーを投げてきた。
「なんで死んでるんすか?」
「一応、死んではない」
「じゃあ半分死んでます。行った方がいいっす」
差し出されたスマホには店のアカウント。
Relaxation Room Lapis
担当:ミユ
指名可
健太は眉をひそめた。
「……これ大丈夫なやつ?」
「大丈夫ですって。疲れてる人みんな行ってます」
“みんな”が誰なのかは聞かなかった。
三十八歳。
看護師。
夜勤と日勤が混ざる生活。
妻とは仲が悪いわけじゃない。
ただ最近の会話はほぼ連絡事項だった。
「洗剤なくなるよ」
「土曜、義母来るから」
「ゴミお願い」
それだけ。
だからというわけじゃない。
ただ、少し疲れていた。
⸻
木曜日、日勤後の19時。
妻には初めて「飲み会があるから遅くなる」と言い訳をした。不思議な背徳感。
駅裏の雑居ビル三階。
薄暗い廊下。
小さな看板。
Lapis
ドアを開ける。
ふわっと甘い香り。
間接照明。
静かな音楽。
そして。
「初めまして。担当のミユです」
終わった。
健太は思った。
二十代後半くらい。
柔らかい笑顔。
綺麗な人。
終わった。
何が終わったのかは分からない。
「健太さん、初めてですか?」
「は、はい」
「緊張しなくて大丈夫ですよ」
大丈夫じゃなかった。
⸻
「かなり張ってますね」
ミユが言う。
「ここ、固いです」
言われるたび、変な汗が出る。
「力抜いてください」
無理だった。
「普段、無理しすぎですよ」
その言葉が妙に刺さった。
九十分後。
身体が軽い。
頭も軽い。
財布だけ少し軽い。
帰り際。
ミユが笑った。
「次回も私、担当します?」
俺は二秒で応えた。
「お願いします!!!」
⸻
そこから毎週通った。
夜勤明け。
休日。
仕事帰り。
理由をつけて。
LINEも来るようになった。
ミユ
『明日19時〜90分でお取りしてます☺️楽しみにお待ちしてますね💕』
ミユ
『かなり張ってるので、早めがいいですよ☺️』
そのたび少し嬉しくなった。
いや。
かなり嬉しかった。
あくまで小遣いの範疇に収めていたが行きたい気持ちが募る。
妻が言った。
「最近機嫌いいね」
「そう?」
「あとなんか若作りしてる?」
白髪染めがバレた。
⸻
事件は九回目の前日に起きた。
風呂から上がる。
リビングが静かだった。
嫌な静けさ。
妻がソファに座っている。
健太のスマホを持って。
「ねえ」
終わった。
画面にはLINE。
ミユ
『明日も19時〜90分でお取りしてます☺️前回から空いているのでご予約いただけて嬉しいです💕』
妻が聞く。
「……何これ?」
「違うんだ」
何も違わない。
女の名前。
毎週。
90分。
楽しみにしてます。
役満だった。
妻はスマホを置く。
「明日、私も行く」
⸻
翌日。
駅裏雑居ビル三階。
沈黙。
エレベーター。
沈黙。
三階。
沈黙。
ドアが開く。
「あ!健太さん!」
ミユが笑顔で手を振った。
「いつもの19時から90分コースですね!」
妻の視線が刺さる。
ミユは続けた。
「今日は奥さまも一緒なんですね!前からペアレッスンおすすめしてたので嬉しいです!」
ペア?
健太は壁を見る。
受付横。
大きく書いてあった。
姿勢改善専門ピラティススタジオ Lapis
……ピラティス?
妻がスマホを見せる。
「じゃあこれは?」
LINE。
『かなり張ってるので、早めがいいですよ☺️』
ミユは頷いた。
「肩甲骨ですね!最初かなり硬かったので!」
次。
『ここ固いですね〜。次は重点的にイッちゃいましょ』
「股関節です!」
次。
『次回も担当しますね☺️いつも指名ありがとうございます』
「担当制なんです!」
次。
『楽しみにしてますね💕』
「前より動けるようになってきたので、私も楽しみで!」
沈黙。
健太は立ち尽くした。
全部。
全部そっちだった。
妻は俯いていた。
怒っていると思った。
違った。
笑いを堪えていた。
「……あんた」
「うん」
「私、浮気疑ってたのに」
「うん」
「まさか相手が姿勢とは思わないじゃん」
⸻
その日。
夫婦で体験レッスンを受けた。
帰宅後。
妻が言った。
「疑って悪かった」
「いや」
「でも隠し方が浮気だった」
健太は黙って湿布を貼った。
翌朝。
妻は起き上がれなかった。
主に腹筋が死んでいた。
これからも浮気はしない。でも月会費は小遣いを超えていた。
