鍵【第1回小説コンテスト優秀賞作品】

結婚式のサプライズ動画を撮ろうと思い立ち、東京から5時間かけて関西にあるこの町に来た。彼女はあまり昔のことを話したがらないが、「巫女をしていた」とだけは聞いたことがある。1枚の写真に書かれた神社の名前からこの町を探し当てた。
巫女をしていたと言っても神社の手伝い程度だろうと、そのときは深く考えなかった。

そんなことを車窓越しにぼんやり思い返しているうちに、電車は小さな木造の駅舎に滑り込む。
軋むレールの音、車輪の振動。
車窓の外には低い山並みと点在する民家。
朝の光に田畑が淡く輝き、土の匂いがほんのり鼻をくすぐる。
ホームに降りると、ひんやりしているが、柔らかな光が頬を撫でる。遠くの山肌まで朝の光が差し込み、影はまだ長く伸びている。街路樹の葉が風に揺れ、鳥の声がちらほら聞こえる。初めて来たのにどこか懐かしく、穏やかな気配が漂っていた。
駅の外に出たが人通りは少なく、町がゆっくり目覚めるようで、これから一日が始まる希望を感じさせる空気に包まれていた。
駅前の居酒屋の前を通ると、掃除をしている年配の女性がこちらを見て、微笑む。会釈して通り過ぎた。
背後から声をかけられた。
「知らん顔やな。どっから来たん?」
先程の年配の女性だった。
「あ、東京からです。ちょっと動画を撮ろうと思って…」
スマホを見せる。女性は小さく頷き、笑みを浮かべた。
「そうかそうか。あんた、祭が目当てちゃうやんな。最近、コロナっちゅう病気流行っとるから祭が開かれるんちゃうかって、町の外からチラホラ人が来よる噂もあるからな」
「祭ですか?」
「なんや、知らんのかいな。でも、あれは外の者は入れんよ」
「そうなんですね。実は、この町には少し縁があって…」
言葉を選びながら続ける。
「僕の婚約者が昔、ここで巫女をやっていたらしく。もしかしたら、その祭と関わりがあったりするんですか?」
女性は視線をそらし、しばらく沈黙した。
「その子は…一緒に来てへんの?」
問いかけの奥に、ほんのわずかな警戒が混じっていた。
「サプライズで動画を撮ろうと思ってまして、僕1人です。」
やや間を置いて、低く、慎重な声で言った。
「あんた、ほんまに何も知らんのやな」
「ええ、正直、詳しいことは何も…」
と、僕は肩を少しすくめた。
女性は小さく息をつき、短く笑った。
「祭の話は…まあ、誰か話すかもしれんけど、外の者が関わっても気持ちええ話ちゃうで」
外の者として知らぬ土地に足を踏み入れ、無邪気に尋ねたことが、ほんの少しの波紋を呼んだらしい。
「まあ祭のことは忘れますんで…ちょっと動画撮りに行ってきますね」
女性は僕をじっと見つめ、小声で答えた。
「…まあ、好きにしいや」
そう言われ、年配の女性と別れた。
ーーー

細い路地を進むと、町とは不釣り合いなほど大きな神社が見えてきた。朱塗りの鳥居をくぐると、苔むした石段が奥へと伸びている。風で枝葉の擦れる音が、日常から切り離された静寂を演出していた。
石段を登りきると、古びた社殿の前に白装束の男性が立っていた。手には箒、腰には小さな鈴が揺れる。
ゆっくり振り向いた。
「こんな所で何してるんや?」
「少し町の様子を見て回ろうかと。観光です。」
スマホを見せる。
白装束の男は一瞬、目を細めた。
「そうか。…あんた、祭のこと調べに来たんちゃうやろな?」
「祭、ですか?」
思わず声が上ずる。
「そうや。あれは町の者でも口に出せんことが多い。外の者には、ましてや言えることはあらへん」
「少しだけでも教えていただけませんか?例えば…そうだ、巫女というのは…?」
慎重に尋ねる。
神主は視線をこちらにやり、低い声で言った。

「やっぱり祭のことか。巫女はな、数えで十四歳の者が毎年選ばれるんや。災いがない年の巫女は『平巫女』と呼ばれ、この町から出ることは許されへんようになる。」
白装束の男は言葉を探しながら続けた。
「もし、災いがあれば、町の七家長が祭が開く。その祭で巫女が『奉巫女』として穢れを取り込むことになる。祭の後、奉巫女は町を離れなあかん。」
僕は思わず口を開いてしまった。
「実は…僕の婚約者が、昔ここで巫女をやっていたと…」
白装束の男はわずかに息をついた。
「そうか、すまんがこれ以上はよそ者には…ましてや婚約者のあんたには語れん。とにかく、奉巫女は、この町に戻ることは許されん。」
黙って頷き、静かな神社の空気を吸い込む。穏やかな町の光景とは裏腹に、見えない力と、触れてはいけない歴史が漂っていることを肌で感じた。
「巫女のこと、教えていただきありがとうございました。では、僕はこれで。」
ゆっくり頭を下げ、神社を後にした。白装束の男は眉をひそめ、しばらくこちらを見ていた。
動画のために中学に寄り、当時の担任からコメントをもらうつもりだったが、そんな事はどうでもよくなった。
ーーー
中学の校門が見えてきた。中に入り、校舎の一角、静かな空気の教室で、彼女の担任だった男の前に座った。特に記憶に残らない40代の男という感じだった。
「すみません、サプライズ動画とは言いましたが、実は…祭のお話を伺いに来ました。」
名刺代わりにスマホを出そうとする僕に、教師は軽く手を上げた。
「なんやねん。騙し討ちみたいなことやめてくれよ。」眉間に皺を寄せて続けた「まあ、わかった。話すけど動画はあかん。当然やけど、俺が話したって言わんといてくれよ?」
教師は重い息をついたあと、口を開く。
「祭のこと、やな?」
声には、ためらいと覚悟が入り混じる。
教師は言葉を選んでいる様子だったが、一気に話し始めた。
「祭が開かれたら生徒が巻き込まれることはわかっとったけど、もう何年も祭がなかったし、まさか開かれるとは思ってへんかったんや。俺は生徒を守ることはできへんかった。守るどころか…。」
教師は続けた。
「巫女も、見届け役も、俺も掟に従うしかなかったんや。あ、見届け役言うのは数え十四歳のこの町の男女で、巫女の同級生やな。見届け役はただ見てるだけや。見んことも許されへん。見届け役の男は献役、女は傍役って呼ばれとったわ。」
声のトーンは抑えられているが、奥にはやるせなさがにじむ。

「あの祭ではな、巫女の親族も縁座として見届けなあかん。正面に親族、親族から見て右に男の献役、左には女の傍役が座る。自分の娘が奉巫女として扱われるのを、真正面で見届ける。あれは正直、こっちが気が狂いそうやった。でも『しきたり』やからな。」
教師はゆっくりまばたきをして、大きく息を吸い込んだ。

「俺は巫女に穢れを注ぐ施役やった。正直最初はあんな事するなんて考えられんかった。巫女に穢れを注ぐ時は、全部の穴を封じなあかんて決まっとってな。穢れが漏れたらあかんからな。町のそこら中の大人が穢れを落とすんやって息巻いてな、順番にあの子の穴を塞いでいく。息つく間もなく次から次へと。」
教師は続けた。


「でもあの空間におったら、空気に飲まれてしもたんや。いや、空気に飲まれたっちゅーか、欲望やったんやろな。気付いたらいつも俺があの子に感じてた欲望をぶつけとった。まだ半分子供の体にやで。」
緊張からか教師の口元には笑みが浮かんでいた。理性と感情の境界があの時、あの場所で溶けてしまったことが伝わってくるようだった。
教師の話は懺悔であり自分の行為を正当化している様で、ただ虚しかった。胸の奥では、怒りも憎しみも湧かず、誰かを責める気にもならず、かといって事実を受け入れることもできない。淡々と語られる言葉に飲み込まれていく。
「なるほど、そうだったんですね」
僕は声を絞り出した。平静を装っていたが、胸の奥の虚無感は消えなかった。教師は目を伏せ、まるで自分の中の何かと折り合いをつけるかのように、ゆっくりと息をつく。
「これくらいでええやろ。あまり立ち入らん方が君のためやで。」
教師の声には緊張がわずかに混じる。
僕は感謝の言葉を告げ、その場を離れようとした。教師はふと視線を窓の外にやった。
校庭の隅、ベンチに腰かけている二人の男女が目に入る。
「俺はこれ以上話されへんけど、あの子たちに聞いてみたらどうやろか」
声を潜めて続けた。
「あの祭の巫女の同級生や。見届け役をやっとった子や。呼んどいた。」
そう言い置いて、背もたれが軋む音がした。
ーーー
促されるままに外へ出ると、秋の乾いた風が校庭を抜けていく。
女性はスマートフォンを手にしていたが、こちらに気づくと軽く顔を上げた。
「失礼します」
声をかけると、彼女はほんの一瞬だけ迷ったように目を細め、それから曖昧な笑みを浮かべた。
「先生のお願いやから話すだけですからね、ほんまに言わんとってくださいよ?」
彼女は唇を噛む仕草のあと、小さな声で続けた
「…あの子が巫女に選ばれたとき、みんな羨ましがってたんですよ。私もそうでした。正直、悔しかった。なんであの子なん?って。でも、祭が始まって…あの場に座らされて、あの子が“穢れ”を受けるのを見せられたとき…不思議な気持ちになったんです。町のため、皆のため、神聖な事やって言われとったけど、私にはそうは見えへんかった。ただ汚されていく、あの子の体。神聖やと思ってた巫女の体が…だんだん、普通の女の子に見えてきて。むしろ、普通よりも惨めで…。それを見てるうちに、胸が熱くなってきたんですよ。あの子が堕ちていくのを目の前で確かめて、なんか安心したんやと思う。“選ばれた巫女”が、私たちと同じ、いや、それ以下になっていく。…あの瞬間、なんだか、嬉しかったんだけ覚えてるんです。」
ひと息で話し、彼女は続けた

「大人たちは、結局あの子を欲していたんやと思うんですよ。止められへん欲望、みたいな。私の熱は、あの子を穢す大人たちの存在もあって、もっと高まっていきました。羨ましい、悔しい、嬉しい…淫らな気持ちも全部がごちゃまぜになって、あの子の体を、心を、まるごと味わうような感覚やった。」
これが自分の婚約者に向けられた感情か。愕然とした。耐えられず、逃げ場を探すように男性に話を聞いた。
「あの、えっと、あなたもあの祭に参加したんですよね?」
「俺たちは…ほんま何もできへんかったんすよ。座らされて、ただ見てるだけ。巫女…あの子が穢れを受けるんを、間近で見せられるだけやった」
「直接関わることは?」
「いや、俺たちはあかんのですよ。大人たちが全部仕切って、俺たちは見るだけやったっすね。けど…その場におったら、どうしても体は反応してしまうんすよね。座って見てるだけやのに、抑えきれなくて…」
男は視線を伏せ、声を落とす。
「最後には…射精してしもてん。はっきり覚えてへんけど、大人の声で『お前らかけろ!』って言われた気がするんすよね。あれも祭の一部やと思ってて。強制されたとは思ってないんすけど、なんかやらなあかん感じがしたんすよね。」
僕は初対面の相手から語られる生々しい告白を、ただ言葉を受け止めるしかなかった。
同級生の男から話を聞き終えると、しばらく沈黙が続いた。重苦しい空気の中で、祭の残り香のようなものが漂う。男は俯いたまま小さく息をつき、やがて口を開いた。
「…思い出すのも正直きつい。けど、こうやって吐き出す機会もらえてよかったっすわ。ありがとうございます。ほな、もう行ってもええですかね?」
そう言うと男はゆっくりと背を向けた。その背中を見送りながら、僕は静かに立ち尽くす。
ーーー
町は夕方の柔らかな光に包まれ、駅へと歩き始めた。いつの間にか陽は落ち、街灯のオレンジ色が静かに町を照らし、夜の影を長く伸ばす。駅前の居酒屋の暖簾の奥からは談笑や食器の音が漏れていた。
現実に身を引き戻しながら、駅舎に入る。
列車が来るのを待つ間、この町で聞いた話を反芻しながら、僕は自分の中に芽生えかけた感情を必死に押さえ込んでいた。
ーーー
列車が滑り込む音が響く。
僕は静かに立ち上がる。
列車に乗り込む直前、大きく息を吸い込み、深く吐いた。扉が閉まり、車内の灯りに包まれると、次の瞬間にはもう、彼女の家へ向かう道を歩き始めていた。
あれは夢だったのか?
鍵はすでに手元にある。指先で冷たい金属に触れ、息を整える。

鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
小さなクリック音のあとに扉を開けた。
「おかえり」
ああ、いつもの声だ。
