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夜がほどけるまで

 

終電を逃したのは偶然だった、と言い切れたら楽だった。けれど本当は、あの店の扉を押して雨の匂いを吸い込んだ瞬間から、私はもう分かっていたのだと思う。今夜は帰らない。帰れない。帰らない理由を、私は自分の中に用意してしまった。

 再会はひどく静かな夜だった。仕事帰りに立ち寄った小さなバー。スピーカーから流れる古いジャズが、氷の当たる音をやわらげていた。カウンターの端で、グラスを指先で回している男の横顔を見たとき、胸の奥が不自然にざわついた。

 見間違いであってほしいと一瞬だけ願った。願いはすぐに裏切られる。彼が顔を上げ、私と目が合った。ほんの一拍、息の仕方を忘れる。数年ぶりなのに、目だけで分かった。これは偶然じゃない、と。

「……久しぶり」

 私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。彼は小さく頷き、昔と同じ癖で口角をほんの少しだけ上げた。

「元気そうだ」

 それだけで、心のどこかに張りついていた針が、きしりと音を立てて動く。私たちは隣り合って座り、当たり障りのない近況を重ねた。仕事の話、住む街、共通の知人。触れないようにしている話題ほど、意識の裏側で熱を持つ。彼の指がグラスに触れるたび、私は視線を逸らせなくなる。触れていないのに、触れられているような錯覚。身体が先に思い出してしまう。

 店を出る頃には雨が降り始めていた。終電はすでになく、タクシー乗り場は長い列。傘は一本だけ。彼が差し出した傘の下に入った瞬間、肩が触れた。薄い布越しに伝わる体温が、思いのほか強い。

「……どうする?」

 彼の声は、記憶より少し低い。私はすぐには答えず、濡れた歩道の光を見つめたまま歩き出した。隣に、彼が並ぶ。歩調が揃う。それだけで、選択は決まっていた。

 駅前のビジネスホテルの看板を見上げたとき、心臓が強く脈打った。拒む理由を探しても、見つからない。見つけないようにしている、と言ったほうが正しい。

 それでも足は止まらなかった。胸の奥で「やめて」と「行って」が同じ声で鳴る。どちらを選んでも傷つくのに、今夜だけは傷つくことさえ甘い気がした。傘の布越しに彼の呼吸が触れ、私は自分の手のひらがじっとりしているのを知った。

 エレベーターの中は異様なほど静かだった。数字が上がるたび、逃げ道が一つずつ消えていく。鏡面の壁に、並ぶ私たちが映る。濡れた髪、少し赤い頬、落ち着かない目。彼の視線は私を追わない。追わないのに、逃げられない。

 部屋に入ると、彼は「先にシャワーを」と言った。優しさがずるい。私は頷き、バスルームに逃げ込む。鏡に映る自分の顔は、欲望と理性の間で揺れている。シャワーの音が耳を塞ぐ。けれど塞げない。あの頃の夜、彼に触れられた瞬間の記憶が、湯気の向こうから手を伸ばしてくる。

 湯が肌を流れるたび、身体の奥がじんわりと熱を持つ。忘れたと思っていた反応は眠っていただけだった。指先が自分の鎖骨をなぞるだけで、呼吸が浅くなる。私は蛇口を締め、タオルで髪を拭きながら、深呼吸を繰り返した。落ち着け、と自分に言い聞かせる。落ち着いてしまったら、今夜が終わってしまう、と同時に思う。

 バスルームを出ると、部屋の照明は落とされていた。カーテン越しの街の灯りが、輪郭だけを浮かべる。彼はベッドの端に腰掛け、私を見上げていた。視線が絡んだ瞬間、空気が一変する。

「……変わらないな」

「何が?」

「目。昔のまま」

 近づいてくる気配。背中が壁に触れ、逃げ場がなくなる。彼の指先が私の頬に触れた。触れるか触れないか、その曖昧な距離をなぞる。肌がそれだけで震える。私は笑おうとして、うまく笑えない。

 唇が重なる。深くはない。ただ、確かめるように。離れて、また触れて、角度を変える。そのたびに、胸の奥がきゅっと鳴る。彼の息が私の唇を湿らせ、次の瞬間、首筋に落とされたキスに、思わず声が漏れた。

「……やっぱり、ここだ」

 彼の低い囁きが、皮膚の内側に染み込む。指が髪に絡み、耳の後ろを撫で、背中を滑り落ちる。服の上からでも分かる熱が、じわじわと広がっていく。私は無意識に彼のシャツを掴んでいた。止めたいのか、近づけたいのか、分からないまま。

「だめって思ってる顔だ」

 彼が笑う。悪い意味じゃない。私の抵抗が、ただの儀式だと知っている笑いだ。私は言い返そうとしたのに、喉が乾いて声にならない。

 ボタンが外れる音がやけに大きく響いた。肌が空気に晒される。冷たいはずの空気が熱く感じるのは、彼の視線のせいだ。触れられる前から、身体が反応してしまうのが恥ずかしい。恥ずかしいのに、嬉しい。

 彼は焦らさない。焦らせる。指先はすぐに深く触れない。確かめるように、なぞる。肩、鎖骨、胸元の境目。私は息を吸い込むたび、もう一つ何かを失っていく。理性の薄い膜が、じわじわと剥がれていく。

 ベッドに腰を下ろされ、私は彼を見上げた。影に縁取られた輪郭が、ひどく綺麗に見える。彼の手が私の手首を取り、指先を絡める。強くはない。けれど、解けない程度の力。

「……怖い?」

 私は首を振った。怖いのは、彼じゃない。自分の中で膨らむ欲望が、怖い。もう止められないと分かってしまうのが、怖い。けれどその怖さは、甘い。

 彼の唇が、肩から胸元へとゆっくり降りる。熱い息が触れるだけで、身体が跳ねる。私は噛み殺そうとして、できずに小さな声を漏らす。彼はそれを咎めない。むしろ、もっと聞きたがるように、耳元で囁く。

「そういう声、ずるい」

 私が肩で息をしながら睨むと、彼は笑って、もう一度キスをした。深いキス。舌先が触れて、離れて、また触れる。頭が白くなる。私は彼の背中に腕を回し、爪が布を掴む。近づけ、と身体が命令している。

 彼は私の反応を確かめるように、呼吸の間を数える。触れて、止めて、息を待って、また触れる。私はそのたびに、自分が崩れていくのを感じる。恥ずかしさも、プライドも、全部。残るのは、彼に触れられているという事実だけ。

 夜は長かった。けれど永遠じゃない。
 彼の呼吸が少し荒くなり、私の身体が熱に溶け、言葉が意味を失っていく。私は彼の背中を撫で、肩に顔を埋めた。近すぎて、恥ずかしさが消える。近すぎて、もっと欲しくなる。

 やがて、波が引くように、少しずつ静かになる。胸の奥に残った熱が、まだしばらく燃えている。私は息を整えながら、彼の体温を確かめるように指先でなぞった。彼は目を閉じたまま、私の髪に触れ、優しく撫でる。

「……ずっと、こうしてたかった」

 彼の声は、寝息の手前みたいに弱い。私は返事をしなかった。返事をしたら、朝が現実になる。今はまだ、夜の中にいたかった。

 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込む。雨は止んでいた。窓ガラスに残った雫が、淡い光を反射している。彼は眠っている。

 ベッドの白い皺が、昨夜の形をそのまま残している。シーツに触れると、まだぬくもりがある気がして指を引っ込めた。残り香のようなものが胸に絡み、私はそれをほどこうとせずに、ただ深く息を吸った。

 昨日の私なら、ここで泣いたかもしれない。けれど今は、泣けなかった。涙より先に、身体に残った余韻が、私を黙らせていた。あの熱、あの息、あの視線。全部がまだ皮膚の内側で生きている。こんなに簡単に、彼に戻ってしまう自分が少し怖い。

 服を身につけ、髪を整え、鞄を持つ。鏡に映る私は、昨夜より少しだけ柔らかい顔をしている。唇を指で触れると、まだ彼の気配が残っている気がした。私はそれを拭い去ることができず、代わりに小さく息を吐いた。

 最後に一度だけ振り返る。
 彼は目を覚まさなかった。起こせば、言葉が必要になる。言葉は、夜を壊す。私はそっとドアノブに手をかけ、音を立てないように開ける。

 廊下の空気は冷たかった。裸足の裏がひやりとする。エレベーターのボタンを押す指が、少し震えている。上がる数字の表示を見ながら、私は自分に問いかけた。後悔する? しない、と昨夜言った。その言葉は嘘じゃない。けれど、後悔しないからといって、幸せとも限らない。

 エレベーターの鏡に、私が映る。整えたはずの髪の一房が肩に落ちている。私はそれを耳にかけ、少しだけ笑った。昨夜ほどけたのは、服だけじゃない。私は、自分の中の硬い結び目をほどいてしまった。

 ホテルを出ると、雨上がりの道が光っていた。朝の匂いがする。人は増え、街は何事もなかったように動き始めている。私だけが、世界の速度に置いていかれているみたいだった。

 振り返らない。振り返れば、きっと戻りたくなる。戻れば、またほどける。ほどけることが悪いわけじゃない。けれど、ほどけた糸は元通りには戻らない。結び直したとしても、きっと少し違う形になる。

 だから私は、今日だけは、帰る。
 足取りは軽くない。それでも、一歩ずつ。

 

 電車の音が遠い。まだ。
 駅へ向かって歩きながら、私は胸の奥に残った熱を、そっと抱え直した。幸福でも後悔でもない、ただの余韻。夜は終わった。けれど、ほどけた記憶は簡単には戻らない。だから私は、今日だけは、帰る。。

クリエイターのプロフィール
月に15件程メンエス、風俗に行ってます! 貯金出来ません! 11月福岡12月栃木遠征行きます! フォローしてくれたら嬉しいです。
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